ナルコレプシーです、お見知りおきを

世界で日本人が一番多い過眠症、ナルコレプシーに関係あること、ないこと。

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「普通」に固執することは無意味である

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「普通」と発言する人たちの思う「普通」とは

・各個人の思考の中で独自に形成されているもの

・多数派が(勝手に) 決めつけていること

即ち「普通」という言葉のほぼ全てが取り合う価値のないものです。

しかし日常会話に頻繁に出現するくらい、日頃から無意識に普通であることを求めている人たちがいます。彼らは意識、無意識問わず、病的なまでに普通であることに固執しているのでしょう。

 

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目次

 


「普通」ってなんですか?

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先日、「(~について)普通にやればいいんですよね?」と方法を聞かれたので「あなたの言う普通と私の考えが一緒かは知らないよ」と返しました、私です。説明して欲しいのか、欲しくないのかどちらですか。若者言葉? スラング? つける必要のない意味のない言葉を発するのは仲間内だけにしてください。

「普通」の乱用

日本人との会話では、よく「普通に~」と聞きます。「普通にこうやればいいんだよ」「普通にそう思う」「普通に考えたら」「普通においしい」 普通に、普通に、普通に普通に普通に・・・・。

そもそも方法を説明するときに「普通にやればいいんだよ」と説明して用が足りるならば、最初から説明自体がいらないということに気づいて欲しいです。わからないから聞いているんですよね。

そのほかにも、「普通になりたい」「普通だったらこうでしょ」「君の考えは普通じゃない」「あいつはなんで普通のことができないんだ」etc...

発言者が言う「普通」は本人の中での常識な訳であって、それが隣にいる人にまで通用するのかは定かではないのです。

ナルコレプシーを発症している私にとっては、究極に眠いときは突然落ちて、突然起きるのが「普通」です。 他の人が同じようにならないことを不思議に思っていた時期がありました。


「普通」という言葉の意について改めて確認する

若者言葉としての意味

いわゆる若者言葉の『普通に』。

比較した結果の標準モデルではなく、発言者のスタンスである基準を意味する。

具体的な理由よりもスタンスが先立つ口実表現であり、基準に託けて同調する託調表現

口実表現なので、言い換えが難しく、『普通に』を省略しても内容そのものは通じる。

引用:普通にとは - はてなキーワード

意味はわかりました。その言葉の発言者が伝えたいこともわかりました。しかし、この「普通に」の存在意義については疑問です。「『普通に』を省略しても内容そのもは通じる」のですし。それでもあえて使用するのですね。

若者言葉ではない、単語の意味について

ふ‐つう【普通】

[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。「今回は―以上の出来だ」「―の勤め人」「朝は六時に起きるのが―だ」「目つきが―でない」
[副]たいてい。通常。一般に。「―七月には梅雨が上がる」
[用法]普通・普段通常――「普通(普段・通常)は六時半に起きる」のように、へいぜいの意では相通じて用いられる。◇「普通」は意味の範囲が広く、「どこにでも普通に生えている草」のように、ありふれている、珍しくないの意、「ごく普通の子」「普通科」のように、特に変わりがない・平均的・一般的なの意に使われる。これらは「普段」「通常」は使えない。◇「普段」は、常日ごろの意に重点があり、「普段の力を出せた」「普段の心がけの問題だ」などでは「普通」「通常」は使えない。◇「通常」は文章語的。いつもどおりで特別の事情がないこと・場合をいう。「勤務時間は通常九時から五時までとする」は、「普通」も使えるが、特別の事情があれば変わることもあるという含みも込められている。

引用:普通(フツウ)とは - コトバンク

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「ごくありふれたもの」「それが当たり前であること」

その「ありふれたもの」の中の一つ一つは果たして自分で決めて、自分で考えた上での決断なのでしょうか。そうしてたまたま同じ選択をした人、ものが多数になり、ありふれたものなのでしょうか。

実際はそうでないことが多いでしょう。多数の人が自分で決断をすることを放棄して、「~あるべき」「~すべき」という誰が決めたかもわからない決断に従っているケースの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。

人間社会の至るところで多数派の信奉する価値観によって、私たちは知らず知らずのうちに一種の洗脳を施され、「自分で感じ、自分で考える」ということから遠ざけられてしまっています。たとえば、「あるがまま」の人間は邪悪なもので、「あるべき」姿に向けてしっかりコントロールすべきなのだといった考え方などは、そうしてすり込まれた価値観の代表格です。

私が嫌悪する「普通」の使う場面

私が嫌悪しているのは、自分の価値観の押し付けです。

「普通、こう考えるよね」 → 教育、環境、宗教。あらゆることが影響して考えは生まれます。個人が持つ思想は必ず同じにはなりません。平均値も存在しません。

「普通、できるよね」 → 生まれたときから能力に差があるのは、必然です。「平均的に~」という意味もあるかもしれませんが、ここではおそらく「万人に出来る」という確信として使われていると思われます。

個人的に言われると吐きそうになること

「普通、この場面では寝ないよね」→ ええ、一般的には寝ないんでしょうね。だからそれはナルコレプシーだからなんだって!! 身体疾患なんだよおおおお!!!!! その件は私は普通じゃないんだってば!!!!!!!!!


なぜ「普通」になりたがるのか

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各国の事情がどのようになっているかはわかりませんが、少なくとも日本人の場合。

出る杭は打たれるので、目立たないようにし、空気を読んで周りに同調する。異端は嫌悪され、糾弾される。農耕社会精神の遺物のため。

彼らが揃えて言う「普通」とは即ち、周りから目立たない状態でいること。「普通の生活」とは、他人の中で話題にならない、目立たない程度に送れる状態であること。

「普通、こう考えるよね」と言われたら違っていたとしても、「そうです」と周.り.に.合.わ.せ.て.言わなければいけないと感じる民族性。そして多数派の信奉する価値観によって洗脳されていくのです。

これらが米作りの歴史を支えていたのでしょうね。時代が変わった今でも続けるならば、せいぜい皆で手を繋いでゴールテープを切ればいいんじゃないんですか。

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正常であろうとし続けることによって異常に成り代わる

ルールや命令に忠実に従おうとし続ける異常

言われたことをちゃんと守る。決して反論することはなく、違うこともなく成し遂げる。おそらく日本人が理想とする人の姿でしょうか。しかしそれが度を越してしまうともはや「普通ではない」のです。

例えばこれ、メランコリー親和型性格

→ 思考、感情よりも命令(ルール)の方を優先する。

メランコリー親和型性格というのは、

・ルールや秩序を守る、几帳面
・自分に厳しく、完璧主義、責任感が強い
・他者に対しては律儀で誠実。衝突や摩擦を避ける

など傾向を持つ性格の事です。

メランコリー親和型の基盤にあるのは「秩序志向性」です。これは秩序やルールをかたくなに守るという性格です。メランコリー親和型の秩序志向性の背景には、「負い目を避けたがる」という心理があり、負い目への過剰なまでの恐怖を抱えています。

自分に対して秩序を守るという意味では、几帳面で真面目、責任感が強い、完璧主義と言えますし、悪くとらえれば、こだわりが強い、頑固という意味でもあります。完璧主義や几帳面さは良い面もありますが、、過度に高い水準を自分に要求するため、しばしば本人を苦しめることもあります。

引用:メランコリー親和型性格がうつ病を発症しやすい理由と5つの対策

このメランコリー親和型性格という類型を名づけ提唱したのは、ドイツの精神科医テレンバッハですが、その著書『メランコリー』(みすず書房)を読むと、確かに上に書いたような性格が記載され、社会的に好ましいものと書かれているのですが、臨床例として紹介されている患者群の日常生活の描写を読むと病前からかなり変な人が多く、よく言えば几帳面だけど細かいことにこだわりすぎて周囲に煙たがられており、そのくせ几帳面さの他には誉めどころのない人たち、帳簿を付けたりする仕事には重宝されるが決してバランスの取れた社会人にはなり得ないような人たちばかりだということを、私は以前から疑問に思っていました。

引用:テレンバッハの「メランコリー親和型性格」について: フロイトの不思議のメモ帳

正常と異常の境界線とは

常時にあっては常人が狂人を、非常時にあっては狂人が常人を診断する
――エルンスト・クレッチマー

 

つまり異常と正常の境界線は時代、環境など、様々なことによって左右されるものです。一体どちらのことを「普通」と指しているのでしょうか。

過去、命を散らせることが愛国心とされ、「普通、正常」とされていた時代もありました。反対に自分の命を大事にする人が当時は「異常」と言われていたのです。

そして常時(平和な社会)では「異常、普通ではない」と位置づけられていた人たちが、時や環境が変わればまた「正常」の地位へと成り代わるのです。それほど両者の定義は曖昧で、一過性のものです。大衆は残酷なほどに移ろいやすいものです。

また、ある程度の安心と安全が保障されている環境化で、笑って、楽しそうにしているのはいわゆる「普通、正常」と呼ばれる精神状態なのでしょう。 例えば銃弾が飛び交い、自分がいつ的にされるかもしれない状況下では、もし同じ状態だった場合はそちらの方が「普通ではない、異常」とされるのでしょう。

(なので、銃弾が飛び交う付近でも眠ったという逸話を持つナルコレプシーは、眠りに関して異常)

銃撃戦の横でも眠ったナルコレプシーの話→ *1

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「普通」はひどくつまらない

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※「ありふれたもの、変わり映えがない」という意味での「普通」において

スポーツ選手が、一般人とどんぐりの背比べみたいな人の集団だったら楽しいですか。

芸術家が平均的な作風しかなくなったら、心惹かれますか。

作家が皆、同じことをそろえたように書くようになったら、新しく手に取りたいと思いますか。

実際の彼らが非凡で、自分が凡庸という話をしているのではなく、世の中が「普通 (ありふれたもの)」しかいなくなったら、今よりも退屈になるという話をしているのです。文化は非凡によって革新されていくのです。

社会を構成する多くの人は凡庸でありますが、「普通」と形容するほど、皆が同じ訳ではありません。もしそれがまかり通るのならば、究極論は、即ちその人格、人生を別の誰かが肩代わりしたとしても同じであるということではないですか。

なぜならば誰かが言っている、「普通」であれば考えること、「普通」の人が行動することは同じなのでしょう? なんてつまらない世界。


「普通になりたい」「普通に振舞う」の無意味さ

「この人は持病があるらしいけど普通に見える」→ 「この人は持病があるらしいけれど、病気を傍目に感じさせない」

病気に見えないからといって、治ったわけではないのです。腫れ物のように扱う必要はないと思いますが、知らないふりをするのは違うと思うんです。ましてや感動ポルノとして扱うのも違います。

「感動ボルノ」について詳しく→ *2

当人が日常生活にどれだけの努力と犠牲を払っているのかを他人が知ることはないでしょう。だからこそ「普通」という言葉を強制するべきではないのです。そもそも「普通」の定義は存在しないのですから。

そしてなによりも当人が、その存在しない「普通」に固執すぎるのも、苦しいことです。

誰にでも話しかけられる人もいれば、苦手な人もいる。インドアの人もいれば、アウトドア派の人もいる。

みんな違う存在です。人の数だけ考え方の違う「普通になる」ことに固執しているよりは、自分の能力で出来ることや、方法を考えた方が余程生産的です。

「みんな違って みんないい」


まとめ

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・現代日本には「普通」という言葉が乱用されすぎている

・「普通」の意味に代表される、「~であるべき」「~すべき」というものはただの多数派の信奉する価値観による、洗脳である

・「普通」になりたがるのは農耕社会精神の遺物である

・「普通」は必ずしも「正常」であるとは限らない。現代の価値観では「異常」なことがかつて「普通」だったこともある。それほど、多数派の価値観は揺らぎやすいものである

・我々は凡庸かもしれないが、決して皆が同じなわけではない

・個人の能力は千差万別なので、自分の価値観の「普通」は他人に押し付けない。押し付けられたとしても、応じることはない

「普通」と発言する人たちの思う「普通」とは

・各個人の思考の中で独自に形成されているもの

・多数派が(勝手に) 決めつけていること


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不眠に対して過眠は軽く思われる傾向があるのです

 

*1:

一九七〇年、Kさんはカンボジアに派遣されます。ダムと水力発電所をつくる仕事でした。(中略)
カンボジアでは当時、激しい内戦が繰り広げられていました。(中略) 本社は工事の中断を決めました。けれども機械や資材ががあるため、残留部隊として留守番が数人残ることになり、Kさんもその一人に選ばれます。
留守番の社員は、定期的にダムサイトまで行って、機械類の安全を確認することになっていました。治安が悪いので政府軍が護衛につきますが、すぐ近くでパン、パンと銃声が響き、Kさんたちの車もいつ襲撃に巻き込まれてもおかしくはない緊迫した状況でした。
ところがKさんは、そんななかでも居眠りしていたのです。同僚たちはゲリラがいつ襲ってくるか戦々恐々しながら、Kさんに半ば感心し、半ば驚きあきれたということです。
銃声のもとでも眠ってしまうというのは、ナルコレプシーの患者さんを襲う睡魔の強さを象徴する話といえます。

引用:書籍 『ナルコレプシーの研究/ 本多 裕』悠飛社

*2: